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奄美の高校野球(奄美新聞正月特集)
「奄美から甲子園」は可能か?・下
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喜界の監督を31年間務めた久保正樹(左端)

40年の「歴史」
奄美の「ハンディー」を紐解く


 鹿児島県全体の高校野球の歴史は100年あまりだが、奄美の高校が甲子園を目指すチャレンジを始めたのは1972年夏の大島工、徳之島が第1号である。以後、73年=大島、74年=喜界、沖永良部、76年=古仁屋、樟南二、77年=徳之島農、78年=大島北、奄美、81年=与論が夏の県大会出場を果たした。奄美は硬式野球の歴史自体が40年あまりと本土の半分に満たない。
 72年に大島工、徳之島が初出場するまでは、奄美は軟式野球だった。
 奄美の球児が、甲子園に行こうと思えば、本土の学校に進学するしかなかった。喜界の監督を31年間務めた久保正樹もその1人である。46年生まれの久保は台湾で生まれ、母の実家がある徳島や大阪で小学校までを過ごし、中学から喜界島にやってきた。「島の子供たちが裸足で野球をやっていたのに驚いた」ことを覚えているという。進学したのは鹿児島市内の鹿児島玉龍だった。
 奄美のチームに硬式野球部がなかなかできなかったのは「金銭的な負担の大きさ」(久保)が最大のネックだったと考えられる。野球用具一式の値段に加え、島から大会に出るためには多額の遠征費がかかる。だが、日本の高度経済成長も一段落し、テレビで甲子園の野球が全国中継されるようになると、奄美の学校でも甲子園に出たいという機運が徐々に高まっていった。
 72年夏、大島のエースだった前里佐喜二郎は軟式から硬式への移行を校長に直訴した。子供の頃から根っからの野球小僧だった前里は、甲子園出場を夢見るも本土への進学は叶わず、2年までは軟式をしていたが「最後の1年間はどうしても硬式をやって甲子園を目指したかった」。部員4、5人で顧問にも相談せず、アポなしで校長室を訪れた。部員たちの無鉄砲な懇願にも校長は嫌な顔することなく「頑張れ!」と移行を認めてくれた。
 夏休みには学校の許可をもらい、土木作業などのアルバイトをして部費をねん出。つるはしやスコップを持ち込んで今もある安陵グラウンドを整備したのが、「硬式野球部」の始まりだった。秋、春と県大会には出場せず、翌73年夏の一発勝負だったが、阿久根農、甲南に勝利してベスト16入りした。

・「経験」のなさ

 70年代から80年代前半にかけて、奄美にもようやく硬式野球部が出そろったわけだが、勝利を目指す以前に大会に出場するために四苦八苦した時代が長く続く。夏の大会には人数がそろい、出場の意思があれば出場できたが、春や秋の県大会に出場するためには、郡大会を勝ち抜かなければ出られないという大島地区の高体連規定に縛られていた時代があった。大島の硬式野球部発足3年目に主将だった上島宏夫は「年1回だけの県大会では、相手がどれぐらいの力を持っているのか、自分たちの実力はどれぐらいなのか、全く分からなかった」と話す。

・「遠征費だけは…」

 今でもそうだが、費用の問題は毎回頭を悩ます種である。大会があるたび、本土まで往復のフェリー代、滞在の宿泊費、食事代などが必要になる。勝ち進めば勝ち進むだけ費用はかかる。雨天順延で試合が延びることも計算に入れなければならない。
 82年4月に前任の森口洋から喜界の監督を引き継いだ久保は、就任直後の春県大会の出来事が強烈な印象に残っている。1勝して次の試合に臨もうとしていた矢先、当時の野球部長から「滞在費が足りない」と真顔で相談された。「負けて帰ろうか?」とでも言い出しかねない雰囲気に反発し、意地になって4回戦まで勝ち進んだ。足りない分の費用を埋めるために、島出身の企業の社長のところに寄付をお願いに行ったことを覚えている。
 野球の勝ち負け以前に、お金の問題で子供たちを不安にさせるわけにはいかない。
 「遠征費だけは必ず出して欲しい」
 久保が就任以来31年間、保護者に必ずお願いしていたのはその1点だった。サトウキビ畑など実家の農家の手伝い、冬休みの年賀状配達、ガソリンスタンドの清掃…遠征費などの活動費を稼ぐためにアルバイトをするのは、喜界に限らず、離島の学校では珍しくない苦労話である。

「ハンディー」を克服するために

 「歴史が浅い」「費用がかかる」「実戦経験が少ない」…奄美勢の「ハンディー」として挙げられる項目だ。これらが近年になって劇的に改善されたわけではない。だが、前述したように05年以降、奄美勢の成績が以前よりも向上しているのはどのような要因が考えられるだろうか。

・熱意ある指導者
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 高校野球においては指導者の役割は大きい。かつては「野球経験のない監督や、4、5年間の腰掛け的な感覚で、熱心に指導しない監督も多かった」と前県高野連理事長の森口洋は話す。現在、奄美で監督をしている指導者にはそういった心配はない。喜界の床次隆志は前任の鹿児島商で07年春のセンバツを経験している。古仁屋の前和樹は岩川で07年にNHK旗準優勝の経験がある。このように、大学まで野球経験のある20代から40代の情熱的な指導者が、奄美に赴任するようになった。
 時間と費用を工夫し、本土に遠征に出るチームも増えている。離島であることを逆手に取り、近年全国でも顕著な結果を残している沖縄に遠征に行くチームも多い。13年夏には、大島の渡邉恵尋=写真=らが中心になって、奄美市でベースボールフェスタを開催した。本土に出て行くのではなく、本土からチームを呼んで実戦経験を積もうという試みである。こういった指導者の熱心な取り組みが成績向上の要因の一つに挙げられるだろう。

・「野球環境」の変化

 「子供たちの野球する環境が昔より格段に良くなりましたね」と大島OBで大島地区の審判員を務める三原裕樹は話す。三原は79年秋、大島が初めて県大会4強入りを果たした時のエースだ。70年代頃までは奄美の小学生にちゃんとした指導者のいる野球チームがなかった。奄美で一番古い小学校のチームは30年前にできた奄美小を中心とする奄美サンボーイズ。上島宏夫が監督を務める名瀬ドラゴンズは創立25年を数える。現在は奄美市内だけで8チームがある。指導者は、上島のように高校野球の経験があり、奄美市役所などで社会人になっても軟式野球を続けている大人たちだ。
 小学生でキャッチボールや打撃の基礎基本を学ぶ。加えて「県大会を経験できるのも大きいのではないか」と上島は考える。上島や三原たちの頃は、中学、高校に上がってからでしかライバルとなる本土のチームや選手を知る機会がなかった。今は地区を勝ち抜けば、小学生でも本土の県大会に出られるチャンスがある。フェリーで遠征し、本土で試合することを小学生から経験できる。

・「オール奄美」で全国へ

 元々、奄美は中学の軟式野球は盛んな土地柄である。前述した亀津中が02年秋に県で優勝したように、ベスト4、決勝進出など県レベルで上位の成績を残している。
 06年から3年間は奄美大島で「オール奄美」の中学生選抜チームを結成し、「奄美から全国」を目指した時期があった。中体連主催の大会は学校単位でしか出場できないが、全日本軟式野球連盟が主催して毎年8月に横浜スタジアムで開催する全日本少年軟式野球大会には、学校だけでなく、選抜チームなどのクラブチームも参加が認められている。
 自営業者で当時、息子のいた朝日中の外部コーチをしていた奥裕史が監督になり、選抜チームを組んだ。06年は県予選ベスト4、07年は県予選で優勝し九州ベスト8、08年は県予選連覇し、九州で決勝進出を果たして見事横浜スタジアムへの切符を手にした。16チームが出場した全国大会では初戦でNBAトレジャーズ(群馬)を下してベスト8入りを果たした。「劣勢になった試合展開をひっくり返すような打力や、勝負強さではかなわないけど、身体的なスピードや守備力は奄美のチームでも十分全国で通用する」とその時の体験で奥は感じたという。

・「裏方」の支え

 大島地区の審判員をしている三原には、強烈に覚えている出来事があるという。23歳で審判を始めて4、5年経った頃だろうか。地元の中学総体で三塁塁審をしていた。同点で迎えた最終回裏、1点入ればサヨナラという場面で、一塁方向へゴロが転がった。ファールと思って捕球した一塁手はベースを踏まずに投手へボールを返した。主審も、一塁塁審もフェア、ファールのジャッジをしていなかったが、うやむやのまま主審がフェアだったと判断して、その前にホームに返っていた走者の得点が認められ、ゲームセット。後味の悪いゲームセットになった。
 自分のせいで負けゲームになってしまって泣き崩れる一塁手の背中を見ながら、三原は「しっかりジャッジできる審判がいなければ子供たちがかわいそう」と思った。以来、審判として研さんに励むようになった。高校の県大会には必ず参加してジャッジする。07年夏には派遣審判員として甲子園で塁審も経験した。細かなルール改正なども対応し、島に持ち帰って練習試合などで島のチームに指導する。前述した中学の試合のように、野球は審判のジャッジ一つも時には大きく試合の流れを左右することがある。三原ら審判員のレベルアップも奄美の野球のレベルアップを裏方で支えていると言えるだろう。

・レベルの高い野球

 94年からは奄美市が「スポーツアイランド構想」を掲げ、スポーツ施設の整備や、合宿などの誘致活動に取り組んでいる。日本代表監督に就任した小久保裕紀ら著名なプロ選手が自主トレで奄美を活用するようになった。10年からプロ野球の横浜DeNAが秋季キャンプを奄美で実施している。大島主将の重原龍成は中学生の頃、野球教室に参加して「石川選手とキャッチボールしたことは感動だった」と言う。
 プロばかりでなく社会人チームは、それ以前から2、3月の春季キャンプに来ていた。13年はJXENEOS、パナソニック、七十七銀行など5チームがキャンプをした。いずれも都市対抗に出るようなレベルの高いチームである。滞在期間中はどのチームも野球教室を開き、奄美の小中高校生や指導者がそれを体験している。「レベルの高い選手たちが日々どんな努力をしているかを知る絶好の機会」と上島は言う。レベルの高い野球を身近に体験できるという点では、本土にはない奄美ならではの「アドバンテージ」といえる。

「奄美から甲子園」の可能性を探る

 本気で奄美から甲子園を目指すなら「小学生から意識づけること」を前喜界監督の久保正樹は挙げる。野球への取り組みもさることながら「正しい食事を心掛けて身体を作ること」の大切さを説く。弁当屋を自営しながら高校野球に取り組んだ久保らしい発想である。
 喜界島で生まれ育った子供たちの素直さ、人の縁に導かれ、「島を出ても生きていける人間作り」に情熱を傾けた31年間だった。甲子園や九州大会出場は果たせなかったが、高橋英樹(元広島)、美沢将(現西武)と2人のプロ野球選手を輩出した。人口約8000人の喜界島から甲子園に行くチームを作り上げる夢はかなわなかったが、もっと人口があって優秀な選手がいる奄美大島や徳之島の学校なら十分可能だと久保は考えている。
 一番現実的な方法を挙げるとするなら、05年の徳之島がそうだったように、力のある中学生がそのまま奄美の学校に進学して野球を続けることだろう。そういう選手たちには当然強豪私学などからの勧誘もある。島を巣立って甲子園を目指して「武者修行」に出る子供たちを引きとめることはできないし、それを批判するのが本稿の目的ではない。奄美から本気で甲子園を目指すなら「そういった子供たちが『来たい』と思わせるような魅力ある野球部を作ること」(渡邉)が、今、奄美の高校の指導者に求められている。

・「ハンディー」を「アドバンテージ」に

 沖縄の八重山商工が06年に春夏連続で甲子園出場を果たした。小学校、中学校のチームを指導していた伊志嶺吉盛がそのまま高校の監督に就任し「小中高一貫指導」で「離島からの甲子園」を実現させた。沖縄の中でも更に離島である石垣島から、日本最南端の甲子園出場校として話題になった。
 「離島のハンディー」にひるむことなく、「離島だからこそできること」を追求して実現させた夢だった。奄美のそれぞれの学校にも「奄美だからこそできること」があるはずだ。そこに真正面から取り組んだ時、「ハンディー」は大きな「アドバンテージ」に変わる力を秘めている。
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テーマ:高校野球 - ジャンル:スポーツ

コメント
この記事へのコメント
熊本でも天草から甲子園のプロジェクトがあります。
私は熊本在住ですが、天草地域も五橋が開通し、昔よりは交通の便も良くなりましたが、有望な選手は熊本工業、九州学院、文徳などに流れてしまいます。
しかし、そのような状況に歯止めをかける為に天草出身の高校野球の指導者に戻って来てもらうようにオファーをかけたり推薦枠の導入により地元に残って甲子園を目指す選手も増えて来ました。
天草工業や天草高校、上天草高校が天草から甲子園をスローガンに頑張って取り組んでいます。
2017/07/03(月) 22:29:15 | URL | しんぺい #-[ 編集]
Re: 熊本でも天草から甲子園のプロジェクトがあります。
 コメント、ありがとうございます。この記事を正月に出した時に大島の21世紀枠センバツ出場が決まったのでとても感慨深い記事になりました。天草にも似たような事情があるんですね。今後、どうなるか注目したいと思います。
2017/07/07(金) 05:53:17 | URL | 政純一郎 #-[ 編集]
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