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「頂点」と「地域密着」と(奄美新聞正月特集)上
出水体操クラブの挑戦
小さな練習場から始まった物語・上

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 出水体操クラブが活動する練習場のすぐ近くに、野間之関跡がある。江戸時代、薩摩藩が出入国を厳しく取り締まった場所だ。小高い丘から八代海が一望でき、周囲はミカン畑なども広がるのどかな現在の光景からは想像しがたいが、かつては「出水兵児」と言われた薩摩藩最強の武士団が生活していた。
 「自分の人生には体操しかない」
 頑なまでに体操に人生を捧げた松本俊一の生き様に、頑固一徹な出水兵児の系譜を見る。その想いは息子・圭成に受け継がれ、全国の頂点を目指す中高生を育てている。同時に、「地域密着」を掲げて子供たちに体操を通じて身体を動かす楽しさを伝えようと新たな取り組みも始まった。出水の小さな練習場を拠点に、松本親子と出水体操クラブの挑戦をレポートする。

・人間技の極致=体操
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 松本俊一=写真=は1955年11月27日、出水市の大川内で生まれた。身体は小さかったが、足も速くて運動は何でもできた。近所の野山や田畑が遊び場で「木登りをしたり、田んぼで跳ねまわって遊んでいた」。
 初めて本格的な体操競技を知ったのは64年の東京五輪を見た小3の頃だ。日本人選手として初の個人総合優勝を果たした遠藤幸雄の演技に「戦慄が走った」という。体操はゆか、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒の6種目の合計得点を競う。跳躍力、柔軟性、パワー、スピード、技術…人間の持つあらゆる身体能力がこの6種目に凝縮されており、人間技の極致に達した演技は「どんなスポーツよりも奥深い」と子供心にも思えた。
 米ノ津中から本格的な体操を始める。体操指導ができる熱血教師・小宮英靖が学校にいたおかげで、競技を始めることができた。体操は「やりたい」と思っても専門で教えられる指導者と場所、器具がなければ本格的に始めることができない。中学体育教師の小宮は自費で器具を購入し赴任した先々で体操部を作ってきた。そんな教員と出会わなかったら俊一も間違いなく体操はやっていなかった。「なんでもできたけど、父親がやっていた剣道をやっていたかもしれない」と出会いの妙に思いを馳せる。時あたかも72年の鹿児島国体に向けて、県を挙げて強化に取り組んでいる時期であり、俊一もその当事者の1人で「全国の頂点を目指す」空気を感じながら体操に取り組むことができた。
 メキメキと頭角を現し、中3の全国中学大会では個人総合で3位と好成績を残した。高校は当時県内でトップの実力を持っていた鹿児島実に進学。高2の山形インターハイでは鉄棒で優勝した。その年の鹿児島国体では個人総合2位、団体準優勝のメンバーだった。
 大学は日本大に進む。日本体育大、東海大、筑波大など実績のある大学からの誘いもあった中、日大は俊一が高3の年に初めてインカレ優勝した学校だったが「日本一の大学に進学したい」と父・宏に頭を下げた。
 大学では体操を始めた「原点」ともいうべき遠藤幸雄の指導の下、2年のインカレでレギュラー入りし団体優勝に貢献した。3年は優勝を逃したが、4年で再び王座に返り咲いた。ユニバーシアードの出場経験もある。社会人は大和銀行で現役を続けた。全日本選手権11回の優勝を誇る名門で、03年に解散した後、チームは内村航平らも所属していたコナミに継承された。
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 高校時代に全国選抜大会の個人総合3位、つり輪で2位、インターハイ団体3位の実績がある息子・圭成も「実績では父の足下にも及びません」と脱帽する。
 そんな俊一も五輪や世界選手権には縁がなかった。76年モントリオール、80年モスクワ、84年ロサンゼルスの五輪予選に出場したが、モスクワの最終予選進出が最高成績だった。84年のロス五輪の年、29歳で現役を引退した。

・3000万円の借金
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 現役引退後はそのまま銀行員として残るはずだったが「体操から離れてしまう生活がどうしても想像できなかった」。現役選手としていずれ「引退」の時期は来る。だが、生活の、人生のすべてと言い切れた体操との縁が切れてしまうことがどうしても耐え難かった。
 鹿実時代の恩師・山田督郎に相談すると、系列校の川内実(現・れいめい)なら教員の枠があるという。体育教員になって、体操部の指導をすることに第2の人生をつぎ込むことを真剣に考え始めた。
 大学の同級生で山形出身の妻・真利子と26歳で結婚し、長女・陽奈もいる一家の大黒柱だ。安定した銀行員の生活を捨てて、郷里に帰り、教員になることについては「懐疑的な目で見る人も多かった」という。
 「鹿児島の体操界にお前が必要だ」
 進路に悩んでいろんな人に相談した中で、恩師の山田の言葉が決め手になった。
 「大和銀行の出身者として恥ずかしくない実績を作れ!」
 最初は反対した上司も、最後は俊一の情熱を理解して背中を押してくれた。「この後、いろいろ大変なことがあったけど、その言葉があったから頑張れた」と俊一は述懐する。
 現役引退した翌年の85年4月から川内実教員として第2の人生を歩み始めたが、教科は体育ではなく「建築科」。鹿実時代に土木科を出てはいるが、卒業以来、土木や建築に関する勉強は全くしていない。生徒と同じく、自身も建築の勉強をするところからが教員の第一歩だった。
 体操部の指導はできたが、本格的に選手を強化しようと思ったら、それなりの設備が要る。中でも安全確保のために地面を掘ってスポンジなどを埋めて衝撃を和らげるピットは不可欠だ。学校に色々と掛け合ったが設置の許可は出なかった。
 「鹿児島の体操を強くする」ために帰ってきたと自負する俊一は、一念発起し自費で練習場を作ることを思いついた。
 出水市下鯖町の実家に、父・宏が営んでいたミカン畑があり、ここと倉庫を合わせれば、体育館と合宿所を併設した練習場が確保できる。
 肝心の費用は建設費と体操器具の購入で約3000万円の見積もりだった。俊一は土地と建物、自身の生命保険を担保にして銀行から借り入れた。返す当ては全くなかった。
 「借金取りも命までは取らないから」
 宏が背中を押してくれた。30年以上、農協一筋で働いてきた宏だが、子供には思う存分好きなことに打ち込んで欲しいという願いがあった。妻・真利子も元体操選手。夫の想いは理解していた。
 89年11月に練習場が完成。以後、俊一は出水の自宅兼合宿所で部員たちを預かり、川内と出水を往復約2時間で行き来する毎日が始まった。(つづく)

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テーマ:体操・新体操 - ジャンル:スポーツ

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