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育児は「育自」―父ちゃんの育児日記・第14回
入院と入園
親子ともども試練の時

180412育児日記01

 2月23日、私の祖母が亡くなった。2月15日に91歳の誕生日を迎えた1週間後だった。21日にこころの生後半年のハーフバースデーをした2日後だった。
 昨年末から体調を崩して入院していた。食事を摂らなくなっていて、正月にあったときやせていて声を掛けても返事をほとんどしなかったので最期の時は近いかもしれないと心のどこかで覚悟はしていた。19日の月曜日に県庁に用事があった帰りに見舞いに行った。「おはよう!」と声を掛けると元気な声で「おはよう!」と返事をしてくれた。その後、会話はできなかったが、帰り際に「3月4日はまた鹿児島マラソンを走るからね」と声を掛けたら力強く頷いていた。それが祖母と会った最後になった。この後、容体が急に悪くなったという。最期に立ち会った父や叔父叔母の誰に聞いてもちゃんと会話をした人はいないようなので、あの「おはよう!」は祖母が残した最後のメッセージだと思うと感慨深いものがあった。
 生まれてから43年あまり、私のことを無償の愛を捧げてくれた。父方の祖父母にとっては長男の長男ということで特にかわいがってもらった。なかなか恩返しもできなかったが、純大とこころの2人を抱かせてあげることができたのが、せめてもの孝行だった。祖父母が私にしてくれたように、私は自分の子供たちや家族を愛し、明るい家庭を作っていくことが祖母への何よりの恩返しになると思った。


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 3月4日の鹿児島マラソンは、季節外れの暑さの中で走り的には悪くなかったが、過去3回の中で一番悪い記録だった。純大とこころ、初めて2人に応援してもらって走ったフルマラソンだった。
 子供も2人になり、日が経つにつれてどちらお心身ともに成長していくと同時に手がかかることも多い。なかなか大手を振ってマラソンのために夕方の陸上クラブSCCの練習にも行けてないのが現状だった。菜の花マラソンが辛うじて4時間を切る惨憺たる出来だったので、鹿児島マラソンまではSCCの練習には行けなくても、朝早起きして走ったり、取材先や家で仕事をしている合間に走ったりと自分で工夫して走り込む量を確保した。記録は良くなかったが、菜の花の時以上には走れていたし、しっかり走る習慣さえ続けていれば、まだまだ記録を狙える走りができる手応えはあった。これからも基本的な条件はそう変わらないし、益々いろいろな変化があるだろうが、そんなときこそ知恵と汗を絞って時間の有効活用を心掛けたい。

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 3月21日でこころは生後7カ月を過ぎた。生まれた頃は両親どちらに似ているか、今一つ分かりにくかったが、最近は私やお兄ちゃんに似ているといわれることが増えた。未だに寝返りができないのが気がかりなところだが、身体も大きくなり、泣いたときの声も一段と大きくなった。寝返りはできないが、背中を反る力が強く、バウンサーで横にしていると落ちそうになるときがある。布団で横にしていても気が付くと縦に移動していて布団からはみ出すこともある。
 健やかに成長していたこころに「大事件」が勃発したのは4月1日のことだ。その日から妻は毎月初めの出張に出かけたが、朝から苦しそうな咳をしていた。その日は息子と3人で城山の実家に泊まり、2日は私が純大を連れて球場に行き、こころは義母が面倒を見ていた。
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 本来なら私が帰ってくるのを待って小児科に連れていく予定だったが、あまりに苦しそうなので帰る前に義母が連れていった。球場から帰宅してしばらくすると義母から電話があり「市立病院に入院しないといけない」という。
 青天の霹靂とはまさにこのことだろう。詳しいことは分からなかったが、気管支炎や肺炎など厄介な症状が出ているので、行きつけの小児科が紹介状を出してくれて、市立病院の救命救急に私が連れていった。
 前日から薄々とは感じていたが、咳がいつもよりひどかったし何より呼吸が苦しくて、夜中に何度か目覚めていた。原因が何だった分からないが、その数日前、「働き方改革」と称して球場に連れていったことがあった。私がその日、珍しく体調を崩して風邪気味だったのがうつったのかもしれないと思うと辛かった。
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 病院に着いて、いろいろ検査をしたり、処置をしてもらって診断が下されるまでは正直生きた心地がしなかった。結局、ウイルス性の肺炎ということでそのまま入院することになった。付き添いのため妻も出張をキャンセルして戻ってきた。
 1週間の入院ということだったが、早目の処置が良かったのか幸い3日で退院することができた。私も仕事の後で1晩だけ付き添って病院で夜を明かした。病院で寝泊まりするのは純大が生まれた年の大晦日に家族3人で正月を迎えようとした時以来だった。ずっと点滴をしている姿は痛々しかったが、何はともあれ無事でいてくれたことに感謝だった。

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 4月10日は純大の幼稚園の入園式だった。
 夫婦共働きであり、この4月からは幼稚園、もしくは保育園に行くということで、昨年の段階からどこへ行くかを考えていた。今各幼稚園では定期的に「体験入園」をしている。この件では妻が主導で体験を申し込み、時間が合えば私も付き合って、いくつかの幼稚園の体験に参加した。最終的に今の幼稚園に決めたのは、遊びを中心にしてゆったりと子供を育てるという教育方針が良いと思ったからだ。入園の申し込みをする日、朝の4時から整理券を配るということでその前から並んだことを思い出す。
 その4日前には小学校の入学式があり、写真館からの依頼で毎年薩摩川内市の東郷小学校に入学式後のクラス写真の撮影に行く。年々子供の数が少なくなっていくことや、子供より保護者の数が多いこと、保護者の年齢が自分より下になっていくことなど、近年の子供事情を知る貴重な機会になっている。今年は「もうすぐ自分も撮られる側にまわるんだなぁ」と思うと、今までずっと「他人事」だった撮影が現実感の伴うものになった。
 入園式には、夫婦と純大とこころ、4人で参加した。入院が長引けばこころは連れていけないところだったが、無事連れていけたのは幸運だった。式典から、教室での説明会までほぼこころを抱いて面倒を見ていたので、ただ流れるままに時間を過ごしていた。
 写真撮影ではなかなか園児がきちんと座らないのでカメラの人や職員がかなり神経をとがらせていた。撮る側の気持ちがよく分かるので、私自身は早目に立ち位置に立ってじっとしていた。式典も説明会も母親がずっとそばで付き添っていたこともあって滞りなく済んだ。
 まずは一安心と思って帰ろうとしたら、教室にあるいろいろなおもちゃが気に入ったらしく「帰らない!」と大泣きしたのは予想外だった。他の園児たちが帰った後だったので職員の先生に協力してもらって強引に車に乗せた。車にいる間中「母ちゃんと幼稚園に行く!」を連呼し続けていた。「行きたくない」と駄々をこねることは予想していたが、まさか初日から帰りたくないと言い出すとは思わなかった。幼稚園が気に入ってくれたのなら幸いではある。散々大泣きして、食事のために実家に着いた頃、力尽きて眠っていた。

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 翌日からは早速、幼稚園バスで通園が始まった。いつもより早起きして準備して、バスが来る10数分前には外に出た。いつもよりご機嫌だったのはみんなでどこかに出かけると勘違いしていたからだろう。バスが着いていざ乗るときまで私が手を引いていた。乗った瞬間にギュッと手に圧がかかったことにたまらない気持ちになった。すぐにバスが行ってしまったので詳細は分らなかったが、泣き出した姿だけは確認できた。
 これまでも両親どちらもがいない状態になったことは何度かあるが、実家の祖父母のところに1人で預けられたり、お泊りした時だけである。近しい家族が誰もいない場所に1人で行くのは間違いなく初めての経験だった。大きくなったといっても2歳3カ月あまり。息子の心境を想像すれば、どんなにか不安でたまらないことだったことだろう。できればずっとついていって息子の見えないところから何をしているのか見守ってみたい衝動に駆られた。

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 これから純大もこころも、未知の世界、初めての経験を重ねていく。不安や困難なことも最終的には自分で乗り越えていかなければならない。親の役目はその字のごとく「木」の上に「立」って「見」守ること。入院、入園と子供たちも親の私たちも、ここ数日で未知の試練をいくつか体験したが、この日記のタイトルにも掲げた「育児」は「育自」であることを改めて思い知らされた出来事だった。

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テーマ:育児・子育て - ジャンル:日記

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