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ベースボールコラム「球道夢限」第9回
野球部日誌を読み返して
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 高校時代につけていた野球部日誌を久しぶりに開いてみた。
 A4サイズの大学ノートが2冊。1冊目の表題に「ある高校球児の軌跡」といささか気取ったサブタイトルがついている。1年生の冬季トレーニングが始まる1990年11月26日から、3年生の夏が終わった92年7月19日まで、ほぼ毎日つけていた。

 今でこそ、日誌をつけたり、それを監督さんに提出してコミュニケーションのツールにしているのはよく聞く。個人的につけていた人はいたかもしれないが、あの頃は特にそんな習慣はなかった。1年の冬季が始まる頃、私は、何か人と違ったアプローチでうまくなりたいと思って始めたことだった。
 「今週はテスト前1週間なので、たいした練習はできないが、自主トレで足腰の強化をはかろうと思う。今日は速筋を鍛えることを中心にすべての練習にスピードをつけてやってみた。ダッシュで左足が痛いのが気になるが早目に克服しようと思う。(90年11月26日)」

 記念すべき第1回目のはこのように記している。
 日誌には、その日の練習メニューを記録し、横に自分の感想を書き込むスタイルだった。最初の頃は、何でそうしようと思ったのか忘れたが、体重の変化も毎日チェックしていた。最初につけた日は62・5キロだった。今より十数キロ軽い。身長が180センチ台だったから、軽すぎるくらいだ。3年生の夏まで70キロを越えたことはなかった。その後の記述も、久しぶりに読み返してみた。インパクトのあった出来事や、監督さん、先輩のアドバイス、印象に残った本の一節の紹介、自分のコンディションや調子についてなど、事細かに記してあった。

 当時の新聞の切抜きなどもはさんでいた。91年5月18、19日の南日本招待野球は、その年の春センバツで優勝した広陵(広島)と愛工大名電(愛知)が招かれて、鹿児島実、鹿児島商工(現・樟南)、鹿児島玉龍、鹿児島商と対戦していた。そのときのパンフレットを眺めていると、愛工大名電の背番号1に「鈴木一朗」の名前をみつけた。今やメジャーリーグで活躍し、世界的なスーパースターになったイチローが鹿児島に来ていた。パンフレットには「右の本格派・鈴木」として「180センチ、70キロの均整のとれた体から、カーブ、スライダーに加えてフォークボールと多彩な変化球を投げる」と紹介されている。当時のイチローは打撃よりも投手として注目されていたのだろうか。
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 「今日初めて全国レベルの野球の試合を見た。愛工大名電の投手力、広陵・鹿商工の守備力、投手力、鹿実・俣瀬のバッティング技術、どれをとっても自分たちのチームとは比べものにならないと思った」

 と高校2年生の私は感想を書いている。その時に見た試合でイチローが実際に投げたのかどうか、記憶はないが、いの一番に名電の投手力を挙げているから、何らかの印象が残っていたのかもしれない。締めくくりに「僕が主力になったら、彼らを越える野球を身につけたい」と書いていたのは思わず笑ってしまった。

 3年生も最後の頃になってくると、ベンチ入りメンバーになれるかどうかの当落線上にいたので、切羽詰った心境を書き残している。

 「意を決して外野ノックに加わった。加わらなければはっきりいって楽だろう。屈辱に耐えさえすれば。それよりもノックに参加して頑張ることの方がつらいのだ。だが、ここでいい加減な気持ちになったら一生後悔するだろう。ミスも覚悟の上だ。(92年6月13日)」 

 当時の1年生が優秀で、エースをはじめベンチ入りメンバーの中に数人は1年生が入りそうだった。3年生であっても、試合で活躍するどころか、経験さえない私のようなメンバーは真っ先に外れる候補だと思っていた。その頃は、下手な人間は練習するチャンスさえ与えられないと思い込んでいた。外野ノックに加わっていてもミスをすれば「どけ!」と監督さんに言われて、そのまま外れて練習を見ていた。「意を決して」というのは「どけ!」と言われてもどかない決意を示したものだろう。試合に出たいというよりは、当時もらっていた背番号11だけは死守したいという気持ちが強かった。その頃はちょうど2度目の失恋(?)をしたこともあって、野球に対する情熱をかきたてるのも必死だった。毎日つけていたはずの日誌もところどころ空白が目立っている。

 私たちの最後の夏は有明に10―7で1回戦は突破したが、2回戦で大島工に0―6で敗れた。三塁コーチャーだった私は何の仕事もできなかった。日曜日の試合だったので母が、まだ小学校に上がったばかりの一番下の弟と一緒に応援にきてくれた。おそらく3年間で親が私の野球を見に来たのは、この日だけだったのではないか。ふとスタンドを見上げると失恋したKさんがいた。試合よりそっちの方が気になった。負けた後、コーチャーボックスで派手に泣き崩れたのは、悔し涙というよりは彼女に対するアピールの気持ちも、どこかにあった。

 最後に書いた文章は今読んでも感慨深い。チームとして勝ち上がっていくことも、私個人が背番号をつけて公式戦に出ることも叶わなかった。3年生の最後というのに野球に身が入らなかった。それでも自分の高校野球を微塵も後悔していないのだ。3年間、野球部で頑張ったことは自分の高校野球で生かせなかったが、今の仕事のスタンスや私の生き方、ものの見方、考え方の根本は、間違いなくここで培ったと言い切れる。

 「今日ですべてが終わった。悔いがないといえばうそになるが、結果がどうあれ3年間すべてをかけてがんばってきて本当によかったと思う。いい仲間に会い、いい先輩にめぐまれ、いい後輩ができた。今日涙を流し先生やみんなと握手をかわしたことを胸に、次の目標に向かってがんばってゆきたいと思う。3年間本当にどうもありがとうございました。(終)」
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テーマ:みんなに知ってもらいたい - ジャンル:日記

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