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コラム「寄り道」第14回
人類の可能性を問う
私の「ガンダム論」

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 先日、Zガンダムの「HGUC」のプラモデルを作ったのに続いて、ガンダムMKⅡの「リアルグレード」(RG)も一気に作ってしまいました。いつだった忘れたぐらい前に購入し、作り始めて挫折したものを一気に完成させました。
 最初にガンプラを買ったのはいつだったか覚えていませんが、小学校の低学年です。それから間もなく40年近くになろうとしているのに、大人の心をくすぐる何かが「ガンダム」の世界にはあるような気がしてなりません。ふとガンダムの思い出をたどってみたくなりました。






 「機動戦士ガンダム」、いわゆる「ファースト」と呼ばれる作品が放送されたのが1979年。私の年齢的には小学校に上がる前です。いつの何がきっかけかは全く覚えていませんが、小学校の低学年ではガンダムにはまってガンプラをよく作っていた記憶があるので、再放送や81年から公開された映画を見て好きになったものと思われます。

 決定的に心をとらえて離さなかったのは85年、小学5年生で見た「機動戦士Zガンダム」でした。メカのデザインが実に洗練されていると思いました。ストーリーもぐっと大人びた感じがしました。ファーストは「地球連邦」VS「ジオン公国」と分かりやすい構図で、ジオン=敵、連邦=味方と思って見ていたのが、「エゥーゴ」と「ティターンズ」という「連邦軍の内部抗争」と一気にドロドロしたストーリーになっていました。

 エゥーゴ=味方、ティターンズ=敵という感覚は比較的分かりやすかったですが、ファーストの「敵役」だったはずのシャアが実は味方側の人間として登場したのが最初の衝撃でした。エゥーゴからティターンズへの寝返りがあったり、途中からジオンの生き残りのアクシズが参戦して味方になったり敵になったり、最後には主人公・カミーユ・ビダンが精神崩壊するという悲劇的な結末も含めて、今思い返しても11歳の小学生がよくこの複雑怪奇な世界観を受け入れたものだと思います。

 思うに、単なる子供だった私が「思春期」を迎える入り口であり、子供じみたものから卒業して何か「大人っぽいもの」を求め始めた時期にピタッとはまったのでしょう。Zを見てからファーストを振り返ると、メカのデザインが子供っぽい感じがして、オープニングの歌詞に「正義の 怒りを ぶつけろ ガンダム」とあるところなどが、子供向けのロボットアニメの延長のような気がして、一時期「格下」にみていたこともありました(大人になって再見すればファーストも十分大人の鑑賞に値する作品であると思っています)。

 Zの続編の「機動戦士ガンダムZZ」はZと一変した冒頭のギャグ的な展開から、中盤から終盤に向かって一気にシリアスな展開になっていくのもすんなり受け入れられました。主人公・ジュドー・アーシタは13歳。15歳のアムロ・レイや17歳のカミーユ以上に12歳だった私が共感しやすかった主人公だったような気がします。ファースト、Zと続いたシリーズの完成形のような物語であり、小学校の6年間がこの3作と重なっているのが興味深いところです。
 その2年後、14歳の時にあった「逆襲のシャア」は私にとってのガンダムの「完結編」だったように思います。アムロとシャア。宿命のライバルであり、Zでは共に戦った同志でもあった2人の決着の物語で私が夢中になったガンダムストーリーは卒業しました。

 45歳になってファーストから始まる4作を振り返った時、ガンダム世界の底に流れているのは、人類の可能性を信じようとする側と否定する側の戦いだったのではないかと考えています。

 コロニーを落として総人口の半数を死に至らしめたジオン公国の思想は「せっかく減った人口だから増やさないように優良種だけを育てていこう」というギレン・ザビ総帥の言葉に集約されます。地球至上主義者で固まったティターンズは反連邦政府運動のあったコロニーに毒ガスをまいて虐殺しました。ザビ家の血を利用して独裁をもくろんだハマーン・カーンもコロニーを地球に落として多くの人民を虐殺しました。諸悪の根源が地球に居続ける人々であると悟ったシャアは、これを断ち切るために地球に隕石を落とそうとしました。

 ガンダム世界が大人の心をもひきつけてやまないのは、いわゆる「敵役」とされる側にも汲むべき「大義」があり、「正義の味方」であるはずの地球連邦側にこそ諸悪の根源が潜んでいるのではないかという現実社会のリアリティーにも通じている点のような気がしています。ギレンやハマーン、ティターンズのパプテマス・シロッコのような選民思想に共感を覚える人も現実世界にいるでしょう。シャアは「敵」という言葉が似つかわしくないほど、魅力的なキャラクターです。アムロやカミーユ、ジュドーといった歴代主役たちをある面でしのぐのではないかと思えるほどです。

 「天才の足を引っ張ることしかできなかった俗人どもに何ができた? 常に世の中を動かしてきたのは一握りの天才だ」と言うシロッコに対して「人の心を大事にしない世の中を作って何になるんだ!」とカミーユはシロッコの否定した生の感情をストレートにぶつけていきます。

 13歳のジュドーは直感でストレートに生きてきた人間ですが、コロニー落としの大虐殺を目の前にして何かを悟ります。そのジュドーに対して「その君の勘から発した、君の怒りと苛立ちは理由になる!」とカミーユが思念を通して語り掛け「人間の可能性をちっぽけな自己満足でつぶされてたまるか!」と己が戦う意味をはっきりと自覚しました。

 「人間のエゴ全部を飲み込めやしない!」から隕石を落として地球を寒冷化し、宇宙に移住せざるを得ないほどの荒療治をしないと人類は変われないと主張するシャアに対して、アムロは「人間の知恵はそんなものだって乗り越えられる!」と愚直に人類の可能性を信じようとします。最後は地球に確実に落ちるはずだった隕石が、人の意思の力によって進路を変え、あたたかな「人の心の光」が人類への希望のメッセージとなり、物語は締めくくりを迎えます。
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 人の革新、ガンダム世界のキーワードともいうべき「ニュータイプ」に人類はなれるのかどうか? アムロたち「主人公」の側はどれだけ厳しい現実の壁に打ちのめされそうになってもその可能性を信じ続けようとします。「敵」側も人類を、世界を何とかしたいという思いが動機にありつつも、最終的には「選ばれた人」しか生き残れないから、人を排除しようとする過激な行動に出る。
 物語の結末は主人公の側が勝利を得るかたちにはなりますが、その本当の答えは現実社会に生きている人たちが出して欲しいというメッセージを投げかけているようにも思えてきます。

 ガンダム世界では「戦争」という極限状態の中、ロボット=モビルスーツの操縦技術を民間人であるはずの少年が長けていることがきっかけになって、ニュータイプへの覚醒が始まりました。ニュータイプとは、実は原作者の富野由悠季氏も明確に定義できていないという概念だそうですが、「人やモノの存在を、どんなに距離が離れていても正確に理解できる人類」(byクエス・パラヤ)としておきましょう。
 人と人とは本当に理解し合えるのかという、当たり前のようであり、実は現実社会で最も普遍的なテーマを描き続けているといえます。親子の愛、友情、恋愛…お互いを理解し、共感しあえたと思った瞬間は人生の無常の喜びの一つ。しかし、本当に理解できているのか、ただ自分の解釈で理解したと思い込んでいるだけではないかというジレンマが常に付きまとっています。
 真の共感=人の革新などあり得ないという考え方もできるでしょう。しかし、理解し合えないからこそ理解しようとする努力が大切なのではないか。「極める」ことはできなくても「近づこうとする」ことが人類の進化につながるのではないか。そんな幻想をガンダム世界から感じつつ、一番身近にいる妻や子供たちとちゃんと理解し合えていない日々の現実を反省するところです!(笑)

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テーマ:機動戦士ガンダムシリーズ - ジャンル:アニメ・コミック

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