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「1球」の重みを伝えて―沖縄尚学・比嘉監督
「縁」「めぐり合わせ」に賭ける
沖縄尚学・比嘉公也監督


 かつて自分が選手として優勝旗を手にしたセンバツに、9年後、今度は母校の指導者として戻ってくる。
 そんな「幸運」を手にした男がいる。沖縄尚学・比嘉公也監督。1999年春の第71回大会、沖縄勢初の全国制覇を成し遂げたチームで、エース番号を背負っていた。2006年6月に監督に就任し、2年目の秋、沖縄を制し、九州大会は準優勝に輝いた。「黄色いグローブをしていたのがカッコいいなぁと思ってました」(西銘生悟主将)「PL学園戦で最後に三振を取ったシーンは今でも覚えています」(エース東浜巨)…部員たちは小学生の頃、センバツで活躍する尚学に胸躍らされた世代だ。26歳の青年監督に率いられた沖縄尚学の新たなる挑戦が始まる。


 ※「ホームラン」(廣済堂出版)の「第80回センバツ大会総合展望2008」に掲載された沖縄尚学・比嘉監督について書いた記事を加筆してお届けします。この特集の後のセンバツ甲子園大会で沖縄尚学は見事優勝しました。

◇「縁」「めぐり合わせ」「感謝」

 「縁があったってことなんでしょうかねぇ。めぐり合わせに感謝です」
 甲子園が現実味を帯びてきた心境を、比嘉監督はこう語る。少子化で子供の数は減少し、高校野球の監督を志しても、教員の採用は年々厳しくなっているのが現状だ。監督になることさえ「狭き門」となりつつある昨今、大学卒業後2年で監督になり、1年半で甲子園の切符が現実に手に入ろうとしている。その「幸運」を今ひとつ実感できないのが他ならぬ監督自身なのかもしれない。「縁」「めぐり合わせ」「感謝」…取材中何度も口にしていた。
 そもそも比嘉監督の野球人生も「縁」や「めぐり合わせ」に支えられたものだった。名護市の久返中時代は全くの無名選手。「大会で1勝できるかどうか」のチームで、胸を張れるような実績はない。身長は170センチないぐらいで、足は100m11秒台で走れるスピードはあったが「負けず嫌いで、味方のエラーで負けたら、エラーした野手をにらんでいたように思います」と苦笑する。実績とは無縁だったが、強豪校である尚学に進んだのは、当時の金城孝夫監督(現長崎日大監督)に誘われたから。「そんな縁がなかったら尚学には進んでいません」。
 田舎で自由奔放に育った比嘉少年が強豪校野球部に入って、最初に感じたのは「こいつら本当に同級生か?」という衝撃だった。のちに主将になる比嘉寿光ら、大きくてがっちりした同級生に圧倒された。
 それでも生来の負けず嫌いを発揮し、金城監督の熱心な指導もあって、甲子園ではエース番号を勝ち取った。体は大きくなかったが、貴重なサウスポーとして、右腕の照屋正悟と2本柱だった。金城監督が根気強く起用し続け、投球のコツを何度も繰り返し伝授していくうちに「1球の重み」に気付かされた。技巧派投手を極め「右打者に外角を引っ掛けさせてサードゴロに打ち取るのは、僕にとっては三振と同じぐらい価値があった」。
 優勝したセンバツや、春夏続けて出た夏の甲子園もまた、縁や因縁を感じさせるものが多かった。
 当時は「投手が3点以内に抑えてくれればOK、4点以上は確実に取る」(比嘉監督)典型的な打のチーム。比叡山(滋賀)、浜田(島根)、市川(山梨)を下し、準決勝ではPL学園(大阪)に8―6で打ち勝つと、決勝の水戸商(茨城)戦は2点を先制されるもすぐさま同点に追いつき、7―2で勝利した。まさに「3点以内に抑え、4点以上取る」野球を発揮し、初めて沖縄に紫紺の優勝旗をもたらした。センバツの行進曲は沖縄出身Kiroroの「長い間」。沖縄にとってはまさに「長い間待たせてごめん」の全国制覇だった。
 決勝の先発は照屋だったが、比嘉投手は3試合に先発し、準々決勝ではリリーフで投げ、投手の柱としての役割を果たした。大会前に優勝候補に挙がるようなチームではなかったが、一戦一戦力をつけて、気がついたら優勝旗を手にしていた。

 「甲子園から帰ってくるまで優勝の実感はなかったけど、沖縄に帰ってきてバスで学校までの道のりを、沿道でものすごく多くの人が出迎えてくれた。初めて自分たちがすごいことをしたんだと実感しました」

 春夏連覇を目指した夏は、2回戦で同じ九州の都城(宮崎)に0―4で3安打完封負け。センバツ初戦は3安打ならが1―0で比叡山に勝っており「3安打に始まって3安打に終わった甲子園だった」と誰かに言われた。

◇指導者の道

 高校卒業後は愛知学院大に進学。3年生で肩を壊し、現役選手の道は断念したが、4年まで学生コーチとして部に残った。高校公民の免許を持っていたが、教員にはなれず、地元に戻り県の嘱託職員の仕事をしながら、教員を目指した。2年目には地理や歴史の免許を取るために、母校の系列校である沖縄大の聴講生として再び大学にも通った。
 大学と高校が隣接しており、時間が空いていれば、夕方の練習時間はグラウンドに足を運んでコーチのようなこともしていた。卒業して3年目を迎える06年春、学園から声がかかり副部長として、正式に野球部に関わるようになる。6月にその頃外部監督で指導していた前監督が都合で部を見られなくなったため、若手ながら、OBで全国制覇の経験がある比嘉監督に白羽の矢が立った。
 「なぜ自分(が監督)なのかは正直分からなかった」。母校だが、普通の学校と違って「結果」を求められる強豪校である。選手として全国制覇の経験はあるが、指導者の実力は未知数。プレッシャーなどはなかったのだろうか?

 「うーん…特に迷いはなかったですねぇ。(監督を)やりたくてもやれない人がたくさんいる中で、めぐり合わせが自分に回ってきた。喜んでやらせていただきますという思いが強かったです」

 監督を引き受けた心境を話す。責任の重さや重圧よりも、めぐってきた縁に賭けた。25歳にして期せずして、念願の高校野球指導者の道を歩むことがかなった。
 比嘉監督の現役時代を知る大城英健部長は「何より人間性。高校生の頃から、まじめで練習でも人一倍声を出して、野球に取り組む姿勢も立派だった。9分9厘負けそうだったPL学園戦でも勝ったように、彼は何か勝負運みたいなものがある」大抜擢の理由を話す。

◇メリハリの利いた指導

 「親しみやすくて、生徒とも打ち解けるんですが、威厳を保つところはちゃんとしている。そのバランスがいいですね」
 監督よりも更に若い23歳の伊志嶺大吾副部長は比嘉監督の印象をこう話す。部員の中に入っても「監督」というよりは「兄貴」と呼びたくなるような親しみやすさは確かにある。だが、それ以上に締めるべきところは引き締め、メリハリの利いた指導ができていると周囲の人間は感じている。「授業では冗談も言って親しみやすい先生なんだけど、ユニホームを着ると人が変わります」とエースの東浜巨は言う。
 指導論や監督としてのあり方などは「日々勉強中」だが、投手出身だけあって、投手を中心にした守りの野球を基本に掲げる。練習中はブルペンでバッテリーを見ていることが多いという。技術的な指導はもちろんだが「試合中の考え方や、気持ちの持ち方の大事さを教わることが多いです」(東浜)。練習試合で2回持たずにノックアウトされたとき、調子の悪さを言い訳にしようとした東浜は厳しく注意された。「調子云々は関係ない。結果として抑えることが大事なんだ」。投手の心構えを教わった。

◇スケジューリングを大切に

 エースの東浜、主将の西銘、ムードメーカーの高甫栄輝…いわば比嘉監督と同じ時期に「入学」した2年生は、県下各地区の優秀な選手が集まった。
 「小学校の頃はエレクトーンをやっていた」長身エース東浜は、指先の感覚に天性のものがあり、「教えた変化球は何でもマスターできる」(比嘉監督)器用さとボールのキレがある。夏の準決勝・浦添商戦で脱水症状を起こして救急車で運ばれ、チームもサヨナラ負けという屈辱を味わい、秋は再びまみえた浦添商を完封した。左腕・上原亘(2年)が大きく成長したことで、投手起用に可能性が広がった。打線はスイッチヒッターで何でもできる万能選手の西銘主将が核になり、盗塁やバントなど、足を絡めたそつない攻撃ができる。「うちは文武両道の学校。勉強もちゃんとやるのは学生の本分です」と言い切れる西銘主将が強力なリーダーシップでチームをまとめあげる。
 個性豊かなメンバーを率い、かつて自分が選手として勝ち抜いた甲子園に、今度は監督として挑む。結果の目標は特に定めていないが「選手の体調は100パーセントの状態にして、やってきたことを全て出し切りたい。そのためには大会から逆算していつ、どこで、何をするといったスケジューリングを大切にしたいですね」と冷静に先を見据えていた。
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テーマ:社会人野球、大学野球 - ジャンル:スポーツ

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