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「スポーツ深掘り」の深掘り20年5月3、10日分
松澤さんから託されたもの!
200512松澤さんとの思い出

 MBCラジオで毎週日曜日の午後6時からある「MBCスポーツ」で「つかじゅんのスポーツ深掘り」のコーナーを担当しています。番組でお話したことやスタジオの様子、お伝えしきれなかったことなどを更に「深掘り」して「スポかごNEWS」でお伝えします。
 元鹿児島実サッカー部・松澤隆司さんについて2週続けて深掘りしました。





(※画像をクリックすると放送内容が分かります。)
 松澤さんは鹿実サッカー部を全国高校選手権で2度の優勝に導き、前園、城、松井、遠藤…日本サッカー界をけん引、特に攻撃的な選手を数多く輩出した名将です。1998年に鹿児島新報に入社して「スポーツ記者」生活を始めて以降、個人的にも大きな影響を受けた指導者の1人です。

 松澤さん=鹿実サッカー部といっても過言ではないほど、長い歴史と輝かしい実績を築いた指導者ですが、実は鹿実出身ではなく、「そもそも教員になるつもりも、サッカーの指導者になるつもりもなかった」と聞いた時には大いに驚いたことを今でも覚えています。

 ちょうど16年前、鹿児島新報が廃刊になった後「松澤さんのサッカー人生についてまとめてみないか」という仕事の依頼があり、学校の応接室で長時間のインタビューをお願いしました。それに基づき「白紙のサッカー人生」と題した連載を「スポかごNEWS」に書きました。

「白紙のサッカー人生」はこの文字をクリック!

 出身は鹿児島商。一度就職したのを辞めて、専門学校に入り直し、無線関係の資格を目指して勉強していた頃、知人から「鹿実の教員の加勢をしてくれないか?」と誘われたのが、そもそものきっかけでした。1964年、前回の東京五輪があった頃です。生徒数が多く、電気関係の教員のなり手が不足していたため、声がかかりました。

 「教員は俺に一番向かない仕事」と思っていた松澤さん。知人の顔を立てるために、学校に足を運び「丁重にお断りするつもりだった」といいます。ところがその時、応対してくれた当時の伊勢虎夫校長が大変忙しい方で、「君が、松澤君か?」と言ったきり、まともに相手をしてもらえず、断る機会を逸してしまいました。

 そのうち新学期前の職員会議が開かれている場所に連れていかれ、新任教諭として紹介されたといいます。「忘れもしない1964年4月5日、雨の日だった」と正確に日時や天気を覚えているのは、それが鹿実とかかわりを持つきっかけだったからです。

 もしその時、伊勢校長がしっかり応対して、断っていたら、少なくとも2度の全国選手権優勝、幾多の日本代表を輩出した鹿実サッカー部の歴史がなかった。そう思うと、人間の運命は、時として偶然の要素が大きな分岐点にもなり得るものだと痛感しました。

 ではなぜ、「なりゆき」でなった鹿実のサッカー部であれだけの実績を作ることができたのか? 詳細は「白紙のサッカー人生」の連載をご覧いただきたいのですが、一つはそもそもの生い立ちから「負けず嫌い」の性格だったことが挙げられます。

 1940年10月19日の戦前生まれ。まだ幼子ながら空襲で逃げ惑い、「飛び込んだ甲突川の水が熱かった」ことを記憶していました。海軍の軍人だった父を戦争で亡くしており、母子家庭で育つ。甲突川の高麗橋付近の中州が子供たちの絶好の「遊び場」でしたが、ここをめぐって子供たちの熾烈なバトルがありました。「泥に石を詰めて投げつける」ほどの喧嘩は日常茶飯事でしたが「不思議と喧嘩した後は仲良くなった」と言います。そんな体験が「負けず嫌い」の性格を作ったのでしょう。

 鹿実でサッカー部監督になってから、県で勝てなくなった10年ほど雌伏の時期を経て、78年の選手権に出場できました。鹿実関東同窓会の人たちが開いてくれた祝勝会に招かれて「何かサッカー部の力になれることはないか?」という問いに「マイクロバスが欲しいのですが…」と答えました。

 「ボールを5、6個いただけるぐらいだろう」と思っていた松澤さんの予想に反し、実際に関東同窓会の人たちは寄付を募ってマイクロバスを1台、サッカー部に寄贈してくれました。そのことに心意気を感じ、頂いたバスを自ら駆って全国を行脚して「武者修行」したことが、全国制覇などの結果、幾多の名選手を輩出した実績につながっていくわけです。

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 個人的には16年前の5月17日、拙著「地域スポーツに夢をのせて」の出版記念パーティーで「鹿児島のスポーツを語る夕べ」を催した際、ゲストスピーカーとして言われたことが心に残っています。

 「本当に鹿児島のスポーツを考えるなら、鹿児島のスポーツについて考える人たちの組織を行政とは別に作り、考える場を設ける。そして、こういう気楽な場で考えられるような集まりを年に1回は開いて欲しい」

 鹿実のOBでも、サッカー出身者でもない、私の活動に惜しみなく協力し、この後何度か企画した異競技同士の交流会に足を運んでくださったのは「鹿児島のスポーツを盛り上げる」「スポーツで鹿児島を盛り上げる」という理念に共鳴してくださったからです。

 残念ながら17年8月11日に逝去されましたが、その「遺言」を改めて胸に刻んで日々の仕事に取り組みたいと思い返すきっかけになりました。

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テーマ:サッカー - ジャンル:スポーツ

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