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スポーツコラム「年中夢求」第22回
「美談」から「体罰」へ
桜宮の悲劇から学ばなければいけないこと

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※本文と写真は関係ありません。

 大阪・桜宮高校バスケットボール部の悲劇に端を発し、様々なことが取り沙汰されている。愛知の強豪駅伝部でも体罰があり、愛知県教委は県立高校などを対象に体罰調査を実施した。「騒動」は女子柔道の日本代表にも飛び火し、学校やスポーツ現場における「体罰」がにわかにクローズアップされている。学校現場やスポーツ指導のあり方を、根本から改善するきっかけにせざるを得ない状況だ。
 学校の存続問題や、果てはオリンピックの招致問題にまで影響が出るほど問題がエスカレートしている。一方で「体罰は是か、非か」に問題が矮小化され「体罰教師」のラベリングや「魔女狩り」が始まりそうな雰囲気を危惧している。


・スタンピード現象
 ものごとがある一定方向になだれをうつことを「スタンピード現象」という。もともとは家畜や、群衆が一定方向に走り出す様を表す言葉だが、メディアの抱える「病理」として問題にされる現象でもある。
 何かセンセーショナルな出来事があると、それに類似する報道が集団加熱的に起こる。しかし、何か別の事件が起きると今度はそちらに方向転換し、前の出来事は忘れられてしまう。今後しばらく「体罰」に関するニュースが加熱し、愛知県のようなことが全国各地で起こることは、間違いない。柔道女子代表監督の問題は昨年9月頃から選手たちが訴えていたのにもかかわらず、今このタイミングで大きく取り上げられるのは桜宮の件が影響していないとは言い切れないだろう。
 問題なのは、それが学校やスポーツ指導の現場に、本当に実りある何かをもたらすのかということだ。

・わたしの体験
 わたし(1974年生まれ)が小中高校生だった80-90年代前半にかけては、教員が手をあげることは珍しくなかった。わたし自身は叩かれるのが怖くておとなしくしていた方だから、「体罰」を受けた記憶は少ない。
 鮮明に覚えているのは、中学2年の頃、昼休みに「2年3組の体育班長、職員室に来い!」とアナウンスがあった。わたしは体育班長ではなかったが、たまたま教室に班長がいなかったので、担任から「代わりに行ってこい」と言われていってみたら、いきなり頬を平手で殴られた。「代わりに来ただけなんですが…」と「言い訳」したら有無を言わさず2発目を食らった。何でも班長に割り当てられていた体育倉庫の清掃をしていなかったらしい。放課後、該当の班長と2人で体育倉庫を掃除していたことを覚えている。

 同級生やそれより上の世代に聞けば、理不尽な体罰を受けた体験談は枚挙にいとまがない。中学の同級生で居酒屋を経営しているT君は、叩かれない日が珍しいほど、よく叩かれていた。一番覚えているのは、野球部の監督に試合中「煙草を買ってこい!」と命令されて、買いに行ってたら「お前を試合で使おうと思っていたのに、いなかったから使えなかったじゃないか!」と言われて何発も殴られたことだという。これは極端な例だが、T君自身、向こうっ気が強く反抗的な態度をとることも多かったので、そんな話を今では「武勇伝」のように懐かしそうに話す。親も、そのことで学校や教育委員会に訴えるなどということはなかった。今だったら新聞の社会面は毎日そんなネタで埋まりそうな話がゴロゴロと出てくる。

 高校の頃(90-93年)、県内のある高校陸上部の監督が、一般生に体罰を加えたとして新聞沙汰になったことがあった。そのことが学校でも話題にはなったが、「よっぽど生徒の態度が悪かったのではないか?」と先生は監督に同情していたし、わたしも「そんなことが新聞記事になるのか?」と驚いた記憶がある。

 98年に鹿児島新報社に入社して以来、スポーツ現場を取材しているが、自分たちの時代との違いに新鮮な驚きがあった。
 少なくともわたしが見ている前で手をあげる指導者はいなかったし、何より「この子たちを一人前にするためにはどうすればいいか?」と子供たちと真剣に向き合っている多くの指導者に出会った。体罰は日常茶飯事、下手な人間は練習試合でさえ使ってもらえないのが当たり前だった自分らからすると「今の子供たちは本当にうらやましいな」と思って、仕事をしていた。

 奄美新聞が奄美大島内で10-70代男女100人に実施したアンケート結果では、30代以上の男女の9割超が「かつて体罰はあった」と答えている。一方で、20代以下は3割以下だった。わたしの皮膚感覚とも一致しており、全国的にも似た傾向を示すと思われる。子供の人権意識の高まりや、ゆとり教育の導入などによって、体罰が減少傾向なのは間違いない。そのこと自体は歓迎すべきことである。

・「美談」から「体罰」へ
 ただ、極端から極端へ振れ過ぎてしまっていることに、違和感を覚える。かつて、ドラマ「スクールウオーズ」のモデルにもなった伏見工ラグビー部の山口良治さんが「美談」としてもてはやされた時代があった。それが今根絶を目指すものとして取締りの対象にさえなっている。そのギャップはいったい何なのか。それを指摘することもメディアの大きな使命であるはずなのに、そういう論評はわたしが知る限り耳目したことがない。
 「体罰」をなくす努力をしなければならないことに異論はない。だが、今の流れだと、手をあげた教員は一方的に「体罰教師」とラベリングされ、「魔女狩り」の対象になりかねないのではないか?
 こういった問題がメディアに出てくる背景を探ると、指導者をよく思わない保護者や、関係者同士の微妙な人間関係や派閥争いなどが絡んでいることを耳にする。結局は「なさざるにしくはなし」で何もしない教員が無難に出世して、子供と本気で向かい合おうとする教員がバカをみることをも助長しかねない。うつなど、深刻な心の悩みを抱えている教員が増えているのは、そういった風潮とも無関係とはいえないのではないか?

 わたしと同世代の元女子陸上選手がフェイスブックに寄せたメッセージを紹介する。
 「高校3年の春、最後のシーズン前に足の故障を自覚していましたが、監督には黙っていました。何故なら、試合に出たい! 短距離走ブロック長としての責任、進学の際、陸上推薦が欲しいなどの理由で。監督は気付いていて病院に連れていき、現役を続けるなら手術が必要との現実に『無理せず引退』と・・・
 翌日から練習に行っても無視、泣き狂って『試合に出たい』という私に『目を冷ませ』と平手打ち!長い人生、一度の試合より大事なことがある。勉強して陸上以外の視野を広げることがおまえには出来る。その覚悟をさせるためにはきっぱり、今すぐ引退と・・・
 しばらくは、理解したくないやら腹がたつやらでしたが、今思ってもターニングポイントです。今の私があるのはあのお陰でもあります。私はあれは、『体罰』ではないと思ってます」

 
 こんなことも、これからは「体罰」として処分の対象になるとするならば、これはこれで体罰以上に深刻な問題ではないだろうか?
 「どこまでが『愛のムチ』で、どこからが『体罰』なのか、線引きは難しい」
 テレビの評論家やコメンテーターは言う。「線引き」しようと思ったら、一切ダメということにして取り締まるのが手っ取り早い。しかし、それで問題の根本が解決するとはとうてい思えない。

・苦悩する現場
 今回の件で、県内のバスケ部、野球部など数人の指導者に感想や意見を聞いた。30代後半から50代で、問題の桜宮の監督とほぼ同世代の指導者である。
 「他人事とは思えない」というのが一致した意見だった。「一歩間違えば自分がその立場だったかもしれない」(40代野球部監督)と真剣に受け止めていた。かつては手をあげる指導も辞さなかったし、その根底には「この子を何とかしたいと全身全霊で向き合う」(30代バスケ部監督)気持ちや「子供たちの成長のためには教師が壁にならないといけない。簡単に乗り越えられる壁なら成長はない」(40代バスケ部監督)信念があった。だが「暴力的な指導に訴えるのは自らの指導力のなさ」(30、40、50代バスケ部監督)に気づいた。
 桜宮の件は「結果を残さなければいけないプレッシャーがあったのではないか。勝つことで自分の地位を保ちたい思いが指導者にはある」(50代バスケ部監督)「自分も同じような指導をしていて問題にならなかったのは、それをフォローしてくれる人がいたから。そういう周囲との信頼関係が築けず、1人ですべてを抱え込んでいたのではないか」(40代野球部監督)などの意見があった。難しい課題を突き付けられた指導者の苦悩が垣間見える。

・メディアが抱えているもの
 スポーツとメディアの関係でも考えたいことがある。日本人にとって、野球はいろんな意味で特殊なスポーツである。プロ野球にせよ、高校野球にせよ、メディアとの結びつきが根底にある。大雑把にいえば、プロは読売新聞、高校は朝日新聞という日本の大メディアがバックにあったことで、これほど莫大な人気を博したといえる。
 その一方で、例えば、高校球児の不祥事報道がなぜ他の競技に比べて厳しいのかといえば、朝日をはじめとするメディアが作った「純真で穢れなき高校球児のイメージに対する背信行為だから」というのが、わたしの持論だ。それ以外に納得する理由がない。
 野球に留まらず、そうやって培われた学生スポーツに対して「穢れなき美しさ」を求める風潮の反動や矛盾が、桜宮の体罰にも根底でつながっている気がしてならない。自戒も込めて、メディアの在り方はこれからも考えていきたいテーマである。

・漸近線
 「教育はどうあるべきか?」「スポーツと体育の違いは何か?」「メディアはどう伝えるべきか?」…解決のカギなど早々見つかるものではない。Y=X分の1の漸近線がどこまでいってもX、Y軸に接することがないように、これが絶対という到達点はない。しかし、そこを求めて切磋琢磨することで、それにより近づこうとすることはできる。「正解」などないことをまずは理解し、それでもより正しい道を求めることに意味があるのではないか?
 「質を上げていかなければならないきっかけになったと思います」(40代バスケ部監督)
 この言葉に勇気づけられた。やみくもに手をあげる指導ができなくなる一方で、時に問題行動を起こす子供とどう向き合うのか。この矛盾する2つのベクトルの中でもがき苦しみながら、道を見出そうとすることから、新しい何かが産まれてくると信じたい。不幸にして失われた17歳の少年の尊い命から、わたしたちが学ばなければならないことがある。

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テーマ:教育問題について考える - ジャンル:学校・教育

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